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第31回・岩見三内&太平
●2005年3月19日
●秋田市中心部→秋田市太平山谷→秋田市河辺三内→秋田市河辺和田
2005年。悲願の高校合格を果した。
長かった雪の頃。やっと春が来た。
心も気候も春になったら早速チャリ旅に出発だ。
副部長氏を招集したのは13時30分頃。
午後から行くとなると・・・・やっぱ仁別だろうか。
いや。正直いって仁別は飽きた。(飽き性なもんで
どーせだったら太平の奥の方まで行ってこよう。
しかし、この判断が本日最大のミスであろうことに気付くわけもなかった。
いつものように千秋トンネル→手形陸橋→柳田→太平八田と駒を進めた。
普段どおりに。太平地区は旧道が現存しており、
特に八田のあたりは、脇に水路が流れ趣き深い。

県道28号線「岩見船岡線」(秋田市太平神田)
さて、太平の中心部「目長崎本町」に到 着した。
ここは、戦国時代に永井広治という豪族が治めていた土地で、
その居城「舞鶴城跡」の標柱も建っている。
河辺の豊島氏とともに、安東氏に対して抵抗を重ね滅んだといわれている。

永井氏の居館「舞鶴館跡」(秋田市太平目長崎本町)
此れより先は、私もチャリでは行ったことがない。
副部長に「この先、行ったことはあるのか?」と問うと。
「お前が行ったことがないんなら、俺も行ったことがない」と。
しばらく旧道を走ると小高い丘に神社を発見した。
「若宮八幡神社」というらしい。由来には次のように記されていた。
若宮八幡神社・秋田市太平中関字八幡野
1369年 永井左近将監 大江広元
相州鎌倉より下着し舞鶴城に住し太平七ヶ村を治む
守護神として鶴岡八幡宮をこの地に観請し 若宮八幡を創立
後 1602年 秋田城介安東氏(秋田実季)造営す

永井氏の面影残す「若宮八幡」(秋田市太平中関)
この史跡は秋田の中世を語る上でも重要なものだろう。
私がこの社の存在を知らなかったことは恥ずべきである。
太平の旧道は走っていて楽しい。蛇行する轍はライダーの心をそそる。
さらにその狭い道がバス路線なのである。

旧道は楽しいです。(秋田市太平黒沢)
やっと太平の最奥「山谷」に辿りつくことができた。
ここは素晴らしいバイパス路線が出来ていて旧道の面影はない。

山谷付近の岩見船岡線(秋田市太平山谷)
この坂を一気に駆け上がると山谷小学校がある。
山谷番楽で有名な学校である。

太平地区最東端の小学校「山谷小」(秋田市太平山谷)
もうしばらくすると「青葉台」というバス停があった。
そこで副部長と引き返すとか進むとかいう論争を繰り返した。
まぁ、時間も時間だしね。せめて私は秋田市との境まで行きたかった。
とりあえず進むことにした。野田牧場の入り口を通過すると・・・
秋田市と旧河辺町との境である。市町村合併したというのに、
境を表す看板はそのまんま。

こっから河辺町。でも今は秋田市河辺(秋田市太平野田)
山道に入って、ここまできては岩見三内に行くしかないという結論が出て、
岩見三内に向うことにした。

最高に寒い。(秋田市河辺三内字繋沢)
繋沢の集落を抜けると三内川が見えてきた。

三内川は流れる(秋田市河辺三内)
副部長は岩見三内バス停脇の商店の自販機でコカコーラ一本を購入した。
我々は寒さと飢えに苦しみながら旧・河辺町中心部の和田へと道を歩んだ。
その中途、警察に「並列で走らないで下さい」と丁重に注意されたり、
トラックやダンプの走る車道を走ったりしながら、なんとか和田に到着。
国道13号線について一安堵した我々を待ち受けていたのは、
雪に埋もれた歩道であった。涙
やはり本日、岩見三内まで行ったのは間違いだったのだろうか・・・。w

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