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​北羽の将星(後編)

第十一章、僻地
愛季の死後は、次男でまだ幼少の実季が継ぐ事になったが、嫡男の業季は、1583年(天正十一年)に早世していた。くしくも、愛季が比内の浅利勝頼を檜山城内で謀殺した年だった。

話しは愛季死後に戻る。
愛季の弟、茂季の息子は、成人して道季と名乗っていた。道季は、父茂季が豊島城で無念の死を遂げたことに対し、叔父の愛季に対して反感を抱いていた。
「愛季が死んだ・・・・」
この報は道季のもとにも飛んできた。道季は湊安東家の嫡流である。
「実季はまだ幼児。これはまさに絶好の機会なり。」
道季は交易の件で安東氏と対立関係にあった戸沢盛安、小野寺義道らと同盟を結び援軍を取り付けた。旧湊家臣団は道季を押して「湊家再興」を掲げた。 道季はかねてより反感を抱いている、永井広治や豊島重氏、涌本脩季ら秋田郡・河辺郡の国人を味方につけた。

1589年(天正十七年)2月、道季は、戸沢・小野寺らの援軍とともに挙兵した。
道季突然の謀叛に秋田郡一帯の国人は動揺して秋田郡の道季方についた。実季方についたのは、愛季一門の竹鼻伊予や中津川駿河、鎌田河内わずかであった。実季は、この時、湊城にいたが、謀叛を知るや下国家の累代の堅城「檜山」に落ち延びた。

永井左近将監の居館「舞鶴館跡」(秋田県秋田市太平)

豊島道季は、実季脱出後に簡単に湊城を手中に収めた。これより「湊道季」と名乗り、湊安東氏の頭領であることを奥羽に示した。
「南部や最上、上杉までもが、秋田を狙っているというのに何故、内紛などで争っているのだ。」
実季の宿老、安東不伝斎の心境でもあった。幼少の実季を主君と見ていたのは、愛季に恩義を感じた旧臣だけであった。

この頃、秋田を狙うものは数多くあった、同じく内紛を抱える南部信直、密かに中央に目をむけていた最上義光。庄内を手中に収めた上杉景勝。
秋田の内紛は、まさしく時代遅れであった。中世から近世に世が移り変わる中、まだ戦を続けるのか。誰もがそう思ってはいたが、北羽の辺境ではどうすることもできなかった。愛季は武力と知略をもって、秋田を平定したが、それのツケが廻ってきたともいえよう。

第十二章、乱戦
湊城を手中にした、道季は上機嫌であった。土崎湊も道季の手に落ち、旧・湊家臣団や戸沢盛安、小野寺義道らの野望は、達成されたが、愛季や実季に恨みを持つ国人の気が収まらなかった。勢いに乗った道季や国人たちは小鹿嶋・湖東・河北を制圧してとうとう檜山城を包囲した。実季方の手勢は道季方の十分の一。

 

檜山城の落城は、時間の問題であった。幼少の実季は、どうすることもできなかった。そんな、実季に変わって、老将の安東不伝斎が采配を振るった。檜山城の残存兵は討死していき、鉄砲も残り200丁。必死に実季方は防戦した。

実季配下の大高筑前や嘉成播磨、鎌田河内らは外交を張り巡らした。
越後の本庄繁長や山形の最上義光らに使者を送るとともに由利十二頭の赤尾津氏を中心に由利郡に外交を展開した。
その一方で実季方の使者として鎌田河内らは道季に「秋田郡の半分」を条件に実季との和睦を提案した。道季方はもともと目標が達成していたので和睦を承諾した。

そして恐れていた事態が発生した。三戸の南部信直が北信愛、大湯五郎兵衛らを総大将に比内に侵攻してきた。大浦為信の独立や、九戸政実の問題を抱えてる南部氏にしては対応が早かった。急報に驚いた大館城代の五城目秀兼、秋田内膳、大光寺光愛は必死に防いだ。また、津軽から大浦為信が攻撃してくるという虚報も入った。
勢いに乗った南部勢は比内を撹乱させ阿仁へ侵攻してきた。実季は、大阿仁(現・秋田県阿仁町・森吉町南部)に松橋美濃を、小阿仁(現・秋田県合川町・上小阿仁村・森吉町北部)に嘉成重盛、嘉成播磨を配置していた。しかし、嘉成播磨は檜山城に出向いてるため嘉成重盛が留守を守っていた。


 

嘉成氏の居館「米内沢城跡」(秋田県北秋田市)

重盛はかなり南部勢から押されていたが、大阿仁から松橋美濃の大軍が来着して戦況は急転。重盛の家臣・奈良岡惣五郎が南部の将の萱森判官を討ち取った。南部勢の目的は内政干渉であったため、城も取らず比内から撤退した。

しかし、南部信直は一筋縄では行かぬ曲者であった。信直は時の権力者、豊臣秀吉に使いを送った。
「実季のやっていることは、殿下の惣武事令に反しまする。当方が実季を退治しますれば是非とも認めていただきたく存じます。」
信直は領内に九戸政実や大浦為信らの問題を抱えていたため早々に秀吉を利用しようとしたのである。

一方、道季は、実季と和睦後「湊家当主」の権力を盾に実権を握っていた。まさしく湊城は平和だった。戦も終わり、国人たちも一安堵したところだった。
ところが同年5月3日、由利十二頭、数百騎が羽川、百三段(現・秋田市新屋)を越えて湊城に進軍した。大高、鎌田らの本庄繁長への外交戦が功を奏したのである。
不意を討たれた湊勢の間では動揺が起き、混乱した。

由利十二頭の挙兵を知り実季が檜山城で挙兵。檜山城を包囲していた湊勢は、混乱して壊滅した。実季は比内・阿仁の援軍をあわせて湊城へ向け進撃を開始した。
北から実季、南から由利十二頭が「土崎湊」を挟撃する事になった。戸沢盛安や小野寺義道らの援軍は仙北への由利十二頭の進撃を恐れ自領に撤退。道季は一部の国人衆の援軍以外に軍勢はなく、まさに「孤立無援」になった。

そもそも何故、道季はこんな事態になってしまったのだろうか。由利十二頭の中でも赤尾津氏や岩屋氏、羽川氏は領地も近いせいか道季方であった。しかし、赤尾津家の当主、赤尾津治部は大宝寺義氏との「荒沢合戦」の折に愛季から援軍を派遣してもらい檜山に恩義があった。そこで、交流のあった仙北の六郷政乗に相談して道季と実季の和議を思考した。治部が道季を説得して、六郷が道季の援軍、小野寺家を説得した。
しかし、道季は軽率にも治部の使者を殺害してしまう。この行為に激怒した治部は由利十二頭を説得し道季方を攻撃する事になったのであった。道季の由利十二頭に対する甘さが招いた結果だった。

実季は軍勢を南下させて、国柄隼人が篭る鹿渡古館を落城させる。河北、湖東一帯は戦場と化した。
その後、実季は石岡主膳を総大将に道季に加担した湖東郡の浦城に篭る、三浦盛永を攻撃した。盛永は落城を覚悟して嫡男の千代若を石頭寺の和尚に託して逃させた。盛永は西観音滝に飛び乗り、敵前を目前に辺りを見回した。
「三浦の血筋、武人としての最期しかと見届けよ!」


盛永は腹一文字に掻き切り、臓腑を取り出し敵前に向けて投げた。その後、家臣の東谷寺という者が介錯した。東谷寺は盛永の遺骸を隠し主君、盛永の刀を取り口にくわえたまま岩より落ちて生涯を閉じた。この後、三浦の遺臣は黒川(現・秋田市金足黒川)などで再起を図る。


実季は道季に加担したという理由で、三浦一族で大館城代の五城目秀兼の居城を不在中に落城させ秀兼の妻子は捕らえられた。その後、馬場目城主、馬場目勝時も滅ぼした。

山田の館(現・潟上市昭和豊川山田)の主、山田喜六は湊合戦において三浦盛永に組していた。浦城が落城すると居城を目指したが、小今戸(現・井川町)の当たりで遠く自城が燃えているのを目にした。
「もはやこれまで。」と悟った、喜六はこの地で自刃する。

山田喜六自刃の地碑(南秋田郡井川町小今戸)

道季方の諸城は次々と落城。小鹿嶋、土崎湊へと軍勢が四散していった。
 

小鹿嶋へ道季勢が逃亡する途中に、船越水道において海戦が展開された。 この海戦でかつて荒沢合戦で功名を立てた、一部式部が戦死した。式部は太平の豪族で永井広治とともに道季方に参戦していた。

小鹿嶋の脇本城主、湧本脩季も落城はもはや時間の問題と考えていた。かつて、脩季は勢力拡大を図るために、敵対していた双六城主(現・男鹿市船川)の安東千寿を攻撃したことがある。大勢に無勢であり、千寿は自害。千寿の室も海へと身を投げ露と散った。

脇本城がいくら堅城とはいえ、大軍と化している実季勢になす術もなかった。数日後、実季勢は、本丸まで迫り追い詰められた脩季は自害した。脩季の室は双六まで落ち延びたが、実季の追手が双六まで迫り、室も双六の砦から海に身を投げた。
かつて、脩季が滅ぼした安東千寿夫妻の怨念であろうか。現在、その地は「御前落し」と呼ばれている。

 

御前落としを遠望(秋田県男鹿市船川港)
 

小鹿嶋の道季勢は全滅した。道季方の勢力を持つ砦は、新城岩城館、鶴舞館、豊島館、湊城を残すのみとなってしまった。
実季方の軍勢は雲霞の如く「土崎湊」めがけて進軍した。まず、新城岩城館が落城した。一方、土崎湊には200隻もの由利十二頭の船団が配置されて、湊城を2000人とも言われる由利十二頭勢が取り囲んでいた。

 

道季は防備を固めて奇襲に備えていたが、そこに由利十二頭の一人、矢島満安兄弟が300騎を率いて一文字に奇襲してきた。
「実季様への恩義なるぞ。遮二無二突き掛かれ・・・・!」
剛勇な満安は槍をたずさえて、騎馬、足軽かまわず突撃した。もはや、これまでと思った永井広治は湊城に火を放った。湊城は炎に包まれた。

道季の行方は知れず、戸沢盛安、南部信直を頼って落ち延びたという。実季が湊城に入城すると道季の家老でもあった、湊雅楽助が降伏した。実季は後に雅楽助を家老にした。

 

道季の謀叛は、近隣諸豪を巻き込み大争乱に発展した。現在、この戦は「湊合戦」と言われている。湊城は落城して実季の手中に落ちたが、まだ戦は続いていた。
寺内を中心に展開された寺内合戦である。寺内合戦では、道季方の残党兵の豊島重氏、藤倉将監、泉玄蕃(入道源斎)らが奮戦して戦って勝利した。しかし総大将なしでは敗戦も同じであった。

この後、戦は永井広治の居館。舞鶴館で展開される。実季方の由利十二頭の一人、岩屋朝祐が高所に登り采配を握り永井勢めがけてうってかかろうとした。 すると広治が「受けてみよ」というや否や大筒を朝祐めがけてぶっ放した。
岩屋の郎党が負傷したが命に別状はなかったという。広治が二発目を放とうとしたとき、岩屋、打越、羽川らの由利勢300騎が一斉に打ってかかった。こうして永井勢は敗走した。


一方、豊島館に篭った豊島重氏も失脚した。豊島館には一番軍功のあった羽川二郎が入部して「豊島二郎」と名乗る。
この後、六郷政乗、赤尾津治部らの功績で安東実季と道季の同盟者、小野寺義道との講和が成立した。
これを機に、実季は平安朝以来の名跡「秋田城介」を名乗り秋田実季(あきたさねすえ)を名乗る。

第十三章、近世
一方、北隣の大館城代には実季の配下の秋田内膳、五城目秀兼、大光寺光愛が赴任していた。そんな時、五城目秀兼のもとに自らの居城「山内城」が落城したとの報せを大光寺光愛からうけた。留守居役の弟と秀兼の妻が戦死したというのだ。
秀兼は三浦一族。浦の三浦盛永の同族でもあったため道季に加担したと疑われ攻撃されたのである。大館と五城目にはかなり情報の時差があるが、このままいけば、自分の首を実季が取りに来るのも時間の問題であろう。
「おのれ実季め。安東氏に尽くして数十年。忠臣も滅ぼす気か!」

五城目秀兼の居館「山内城」(南秋田郡五城目町下山内)
 

大光寺光愛は五城目秀兼に語った。
「秀兼殿ほどの名将が、家臣を信頼しない実季の輩に仕えるなどもったいのうござる。家臣を大切にする南部信直様にお仕いなされたほうが今後のためにもなるでしょう。」
もともと光愛は南部家家臣で津軽の頭領。大浦為信の謀略で南部家を失脚して安東愛季に仕えたが、南部家への忠節は忘れていなかった。五城目秀兼は謀叛を決意した。

まず手始めに秋田内膳を殺害した。秋田内膳は五城目秀兼の謀叛と聞いて耳を疑ったが、あとの祭りであった。大光寺光愛と五城目秀兼は「大館城」をはじめ比内郡を手土産に南部信直に寝返った。

この報せを聞いた実季は南部領に出兵しようとしたが、既に南部信直が豊臣秀吉に使者を派遣して「実季は惣武事令に反している」と伝えている。実季の改易は免れない状況であった。

この頃、天下統一を目指していた豊臣秀吉は尾張の百姓の出である。1585年(天正十三年)全国に「惣武事令」を発布して、私闘を禁止した。そして関東以北の諸大名に「上洛」を促した。

真っ先に秀吉の意向に沿った奥羽の諸大名は、大浦為信であった。為信は南部信直や秋田実季と対立していた。「津軽の一豪族」として南部氏の家臣扱いだった。ましてや予想外の大光寺光愛と五城目秀兼の謀叛で南境が南部信直に制圧されてしまった。
「もはや独立しか道はない!」
為信は独立を決意して秀吉に使者を派遣して、津軽一国安堵された。その後、為信は「津軽為信」を名乗ることになる。

関東八州の覇王で堅城「小田原城」を武器に持つ北条氏政はなかなか上洛しなかった。氏政の嫡男、北条氏直の妻が秀吉一の家臣、徳川家康の娘だったからである。
「北条家には関東がある。猿などにやすやす関東は渡さぬ。」

もう一人、秀吉に盾突いて上洛しない男がいた。
奥羽の伊達政宗である。政宗は一代で小国「伊達家」をまとめあげて南奥羽を平定し、その後、会津の芦名義広を駆逐して奥会津を平定した。

完全に秀吉は馬鹿にされていた。
激怒した秀吉はくだらない口実を盾に関東の北条氏政を攻撃した。世に言う「小田原征伐」である。その数は20万人とも云われているが、想像を絶する大軍勢であった。
対する、北条勢にとても勝ち目はなかった。
日に日に、増える秀吉勢。まさに「天下統一」の名にふさわしかった。

小田原北条氏の居城「小田原城跡」(神奈川県小田原市)

この戦は関東・奥羽の諸大名の忠誠心を試すものでもあった。
常陸の佐竹義重、山形の最上義光、三戸の南部信直、角館の戸沢盛安、秋田の秋田実季、横手の小野寺義道らが次々と小田原へと参陣した。
しかし、そこにあの「伊達政宗」はいなかった。ところが、意地を張った伊達政宗も家臣の片倉小十郎に説得され小田原に参陣した。

秋田実季に同行したのが、蝦夷の蛎崎慶広であった。蛎崎氏は安東氏の配下として蝦夷の代官であったが独立を狙っていた。慶広は徳川家康や前田利家に接近して見事所領安堵。「徳川(松平)」「前田」から一文字づつもらい以後、松前慶広を名乗るようになる。
これにより安東氏(秋田氏)の蝦夷地支配が終わった。

最終的に北条氏政が秀吉のもとに降服。戦は終わった。この後、秀吉は会津黒川まで行軍して「奥州仕置」を発表。伊達政宗は会津を没収された。その他、参陣しなかった大崎、葛西などは改易された。秀吉配下の蒲生氏郷が会津に入部。木村親子が葛西・大崎郡に入部した。

 

さらに、浅野長政、前田利家、上杉景勝らが代官として派遣された。
ところで、実季は湊道季との「湊合戦」で「惣武事令」に反すると関白に詰問されたため慌てて前田利家に弁解した。利家は状況を理解して関白に穏便に話し実季は許された。
北羽で所領安堵された大名は「秋田実季」「戸沢光盛」「小野寺義道」「六郷政乗」「本堂忠親」「仁賀保挙誠」などであった

第十四章、意地
一方、南部信直の家臣として長年対立関係にあった九戸政実はとうとう決意した。
まず、「奥州仕置」で潰された葛西・大崎らの残党を九戸城に入城させた。
「信直を倒す!そして関白を討つ!」

あまりにも無謀で壮大な計画であった。奥羽から「天下」を揺るがす。時にして、1590年(天正十八年)の暮れの事であった。
3月、とうとう政実は南部諸城を攻撃する。信直は配下に出陣を命じたが配下は情勢を見守っていた。焦る南部信直は秀吉に援軍を要請すると、秀吉は激怒した。
「時勢を読めぬ軟弱者め!」
秀吉は6月、甥の豊臣秀次を総大将に伊達政宗、蒲生氏郷、徳川家康らを筆頭に数万の軍勢をもって九戸城に向かわせた。おわゆる「九戸討伐」である。

一方、九戸勢は九戸政実、弟の実親、櫛引清長、久慈直治、七戸家国ら数千人。
上方の大軍が進軍してくると九戸勢は一戦も交えることもなく九戸城に篭城した。
9月、奥羽の津軽為信、松前慶広、秋田実季、小野寺義道、仁賀保挙誠らも九戸城に参陣した。9月2日から九戸城総攻撃が始まった。弓矢、鉄砲で攻撃したが九戸勢はびくともしない。しかも攻めれば攻めるほど死傷者が増えるばかりであったという。
秋田家の家臣団はかつて鹿角戦で九戸政実と戦ったことがある。
「見事な戦いぶり・・・」
誰もがそう思った。関白秀吉に盾突き奥羽の意地をみせた政実にだれもが感嘆したのであった・・・・。
九戸勢のあまりの勢いに上方勢はたじろいだ。
「味方の痛手は百余騎。九戸の痛手はほぼなし。」
南部信直と蒲生氏郷は九戸政実に使者を送った。ひとまず和睦の使者を送った。
和睦の使者には九戸家菩提寺「長興寺」の和尚が受け持った。
九戸政実は今は勝機に満ち溢れているが、時期に上方勢によって九戸城は落城すると考えた。そこで全員助命を条件に九戸開城を決意して和睦に応ずることにきめた。しかし、弟の実親は反対した。

「兄上、信直輩や関白の魂胆など目に見えてます。関白は兄上を斬りましょうぞ。和睦などに応じてはいけません。」
政実は舎弟に言い聞かせるように言った。
「関白が俺を斬ったら俺の勝ちだ。しかし関白が名目をもって俺を南部家当主にしたら俺の負けだ。ここは関白の采配を見てやろうじゃないか。」
政実は天に身をゆだねた。
1591年(天正十九年)9月4日、九戸政実は剃髪して櫛引清長、七戸家国らの家臣とともに上方勢の浅野長政に降服した。
しかし和睦とは裏腹に、大将なき九戸城に上方勢は総攻撃をしかけた。九戸の残党は全員殺戮された。
最後まで九戸城に篭り和睦に応じなかった、政実の弟の九戸実親も勇戦の末に討死した。

この後、九戸政実はじめ主要武将たちは「天下の大敵」とされ一言の釈明の余地もなく上方勢に斬られた。同年9月8日に九戸政実は惨殺された。政実の死は奥羽の中世の終わりでもあった。
 

九戸政実夢のあと「九戸城跡」(岩手県二戸市)
 

最終章、奥羽の王国
数々の苦難に東奔西走した秋田安東氏は、出羽国秋田郡を治める領主から秋田の近世大名へと変貌を遂る事に成功した。

 

1595年(文禄四年)実季に服属していた浅利頼平が津軽為信の援護のもと懲りずに比内へ出兵してきた。。一方、南隣の由利では、大井氏と仁賀保氏の対立が深まって数十年が経過していた。この争乱は大井家当主、五郎満安の自害で一段落するが、最上、本庄(上杉)、小野寺を巻き込む大騒動となっていた。

秀吉は国内統一が完了したということで朝鮮に出兵を試みた。「朝鮮出兵」である。
この時、全国の諸大名が一夜でできた壮大な肥前名護屋の城に集まった。もちろん北羽の大名たちも参陣した。
この陣中で仙北の戸沢光盛は病死した。享年34歳。光盛は盛安の弟であり、兄が小田原合戦で病没すると盛安の嫡男(後の政盛)の後見人となって当主になる。しかし、秀吉から無理難題を押し付けられて戸沢領はかなり厳しい状態にあった。光盛も心労がたたったのであろうか。

1594年(文禄三年)豊臣秀吉は秋田実季や近隣諸国の国人らに「杉材」の提供を求める。秀吉は伏見築城にあたって良質な木材が欲しかった。実季は敦賀の北国商人を使って京に廻送した。主に、杉材は仁別(現・秋田市仁別)や米代川流域から切り出したといわれている。

翌年、山形の最上義光が仙北の小野寺義道の領内に侵入した。
義光の家臣、楯岡豊前の謀略にかかり有能な家臣であった八柏道為を殺害した、当主、小野寺義道に付き従うものはなく、次々と城塞が落とされていった。

 

八柏道為が謀殺された中の橋(秋田県横手市)

北国が動乱の中、太閤、豊臣秀吉は病死した。

「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 難波の事も夢のまた夢」

秀吉亡き後は五大老の筆頭・徳川家康と五奉行筆頭・石田三成が対立しはじめた。この対立は全国に及びもはや戦闘は避けることが出来ない状態であった。
しかし「豊臣政権」の磐石な体制を守ろうとした前田利家が両者を押さえつけるという状況にあった。ところが、その利家があっけなく死去した。天は少しづつ徳川家康に味方していった。徳川家康は全国の大名に上洛を要請した。

まず動いた男が会津の上杉景勝であった。軍を整えて城を造り家康の上洛に応じなかった。景勝の家老・直江兼続はかなりのヤリ手であった。謙信以来の最強軍団である上杉軍にはさすがの家康も慎重にかからざるを得なかった。

1600年(慶長五年)に親・家康派の最上義光は家康の命を受けて一旦山形に帰陣。義光は秋田実季、小野寺義道、戸沢政盛、六郷政乗、由利十二頭らに家康方への勧誘を求めた。義光は出羽の太守として家康から信頼されていた。北羽の上記の諸大名は徳川方につくことになった。石田三成も書状をこれらの大名に送ったがあまり効果はなかった。
徳川家康は「上杉征伐」と題して全国の諸大名を会津に出陣させた。しかし、進軍の途中に上方で石田三成が挙兵した。家康は次男の結城秀康を残して急いで上方へ向かった。
一番、困惑した男は最上義光だった。家康軍が引き上げれば上杉は山形を攻めてくるだろう。義光は早速、甥の伊達政宗に援軍を要請した。しかし政宗は上杉と中立停戦同盟を結んでいた。最上義光に少なくとも勝ち目はなかった。

仙北の小野寺義道は最上義光の不利な状況を見て突如として上杉景勝方についた。
小野寺義道は最上が出羽の太守であることにも不満であったし何よりも自領に義光が進軍したことが腹立たしかった。
同年9月、上杉景勝は最上義光を攻めるべく山形に進軍。小野寺義道も北から最上領を攻撃した。
しかし9月25日に徳川家康は石田三成を美濃関ヶ原において破っていた。
「三成殿が敗れたら意味はない・・・・・」
景勝の家老、直江兼続は最上軍との「長谷堂合戦」で見事に殿を務めた。
上杉軍が会津に引き上げると小野寺義道は奥州でただ一人孤立化した。更に由利の大井五郎の遺臣たちは「主家再興」を掲げて笹子(現・秋田県由利本荘市笹子)で挙兵した。

最上義光は六郷政乗、戸沢政盛、秋田実季に小野寺方諸城の攻略を依頼した。しかし、秋田実季は不服であった。
「なぜ最上づれの下に立たねばならぬのだ・・・・」
実季は庄内の上杉家臣、志駄修理が篭る「酒田城」を攻撃すると義光に申し出た。
しかし、義光は断った。
「戸沢殿と協力しつつ小野寺方の大森城を攻めてもらいたい・・・」

実季は強行に庄内へ出兵することを考えて仙北淀川境に城を築いた。戸沢政盛を牽制するためだった。政盛は秋田実季に対して疑心暗鬼が高まった。
「何故、実季は世の中の情勢を読めないのだ。天下は家康様のものになった。その信頼厚き最上義光殿に反旗を翻すとは・・・・」
戸沢政盛は実季に対して自領の通行を拒否して独力で小野寺方の大森城を攻めた。
また、六郷政乗も小野寺方の黒川城を落として戦功を挙げた。しかし、実季に関してはまだ小野寺領に攻撃が始まっていなかった。とうとう同年10月18日には最上義光が小野寺領を攻略し始めた。小野寺義道は領内の防衛に全力を尽くした。義道は本拠地を横手城から要害拳固な大森城に移した。小野寺領内の支城は結束を固めて対陣したため容易に義光は落せなかった。実季もようやく大森城を包囲したが、豪雪のために攻撃は出来ずに自領に撤退した。

しかし、小野寺方も多勢に無勢。翌年最上義光に降伏した。
最上義光は徳川家康に秋田実季の挙動不審な点を訴えた。実季は「奥羽における情報伝達の鈍さが混乱の原因」と家康に弁明した。

1601年(慶長六年)8月に戦後の国替えが徳川家康によって発表された。仙北の小野寺義道は改易されて石見津和野の坂崎出羽守に預かりとなり、小野寺氏が400年治めた仙北郡支配に幕が下りた。

 

小野寺義道墓所(島根県津和野町)
 

また、不審な態度を見せた秋田実季は常陸宍戸に移封された。表面上は加増であっても事実上は左遷であった。最上義光に忠節を尽くした戸沢、六郷らは栄転を遂げて常陸に移封された。
更に、最上義光本人は雄勝郡と由利郡を加増されて長年の苦労が報われた。由利十二頭は最上義光の配下に加えられた。上杉景勝は会津120万石から米沢30万石への大減封を受けた。また、中立を保った伊達政宗には何の恩賞もなかった。

こうして北羽を風の如く駆け抜けた武人は消え去った。そして、北羽の土地には常陸より佐竹義宣が減封されて入部してきた。

常陸宍戸で秋田実季は息子の俊季と対立して隠居し、伊勢朝熊で文化人として隠棲生活をはじめた。1659年(万治元年)11月29日、実季は波乱に満ちた人生に幕を閉じた。その後、秋田氏は陸奥三春で明治維新まで存続する。

実季が秋田から離れて400年。現在、秋田の地に当時の面影を感じることができないが、そして、愛季や実季が過ごした土崎湊からは今も諸外国への貿易が行われている。

更新日:2005.5.13

加筆修正:2017.8.6

【参考文献】

・秋田魁新報社『秋田の城』(秋田魁新報社、1955年)

・戸部正直著、今村義孝注『奥羽永慶軍記(上・下)』(人物往来社刊、1961年)

・深澤多市『小野寺盛衰記』(東洋書院、1979年)
・国安寛、柴田次雄編『郷土史事典・秋田県』(昌平社、1979年)
・本荘市編『本荘市史通紙編1』(本荘市、1987年)
・渋谷鉄五郎『秋田「安東氏」研究ノート』(
無明舎出版、1988年)
・大内町史編さん委員会編『大内町史』(大内町、1991年)

・柳沢弘志『鹿角の歴史案内』(無明舎出版、2003年)

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